旅の記録

旅ブログです。

台湾旅行3日目④ 嘉義市内散策、ひのき村

 

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烏山頭ダムの観光を終えたのが午後3時頃。隆田駅で嘉義行きの電車が来るのをしばらく待ちます。ちなみに帰りの切符は思い切って自動券売機で買ってみたのですが、思いの外簡単に買えてしまったので拍子抜けしました。機械が日本語に対応していなくとも、漢字が読めれば何となく意味は分かるので、日本人にとってはそれほど難しくはないんですね。

 

KANO

 

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帰りの電車は何故か1時間近くかかってしまいましたが、午後4時過ぎに嘉義駅へ戻って来ました。台湾中部の主要な駅の一つということで、駅前はさすが賑やか雰囲気です。

帰りの新幹線は夜にも便があるということだったので、これからは日暮れまで嘉義市内を散策し、その後嘉義の夜市で晩御飯を食べ、お腹を満たしたら高鐵嘉義駅経由で台北に戻る、というスケジュールでいくことにしました。

 

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まずは駅から1km弱の所にあるロータリーを目指して東へ進んで行きます。時折アーケードの下を通りながら歩いて行きます。

 

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嘉義の街は高いビルはないものの、車とバイクと何より広告の看板の文字で溢れかえっており、何というかエネルギーに満ちた街だなあという風に感じました。

 

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ロータリーに着くと、噴水に取り囲まれた形で銅像ならぬ金像(?)が中心に聳え立っていました。これぞ私が嘉義の街で最もお目当てにしていたもので、映画『KANO』の大ヒットを記念して造られた像です。

これまでのブログでもちょいちょい『KANO』の名前は出していましたが、皆さんは『KANO』という映画をご存知ですか?『KANO』は2014年に公開された台湾映画のことで、かつて嘉義市内に存在した嘉義農林学校(現在の嘉義大学農学部)の野球部にスポットが当てられた映画です(“KANO“とは嘉義農林学校の略称“嘉農“から取られています)。

 

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1931年、嘉義農林野球部は全国中等学校優勝野球大会(現在の夏の甲子園)に出場しました。夏の甲子園と言えば、現在は各都道府県毎に代表校が出場するシステムですが、戦前は朝鮮や満州、そして台湾といったいわゆる「外地」の学校からも出場が認められていました。この年の嘉義農林は、初出場ながらあれよあれよという間に決勝に進出し、見事準優勝。この準優勝というのは、戦前の間だけ出場が認められていた「外地」チームの最高成績でした。

戦争が終わり、「外地」チームの出場が無くなると、嘉義農林は一部の高校野球ファンに名前のみ知られる存在となり、地元の人ですら嘉農野球部の活躍は忘れ去られていったそうです。しかし4年前、1931年の嘉農野球部の活躍を描いた映画『KANO』が公開されると、一躍「KANO」の名は台湾全土に知れ渡るようになり、今ではこのような像が設置されるまでに至りました。(台湾の人に「嘉義農林」と言ってもキョトンとした顔をされますが、「嘉農」と言うと「ああ、”KANO”ね!」といった反応をされます(笑))

像が設置されたロータリーは映画の中でも頻繁に登場した場所で、

 

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映画冒頭、アキラが小里と呉波を降ろして自転車で一人で帰るシーン。この時はまだ噴水が工事中です。

 

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1931年、嘉農が全島大会で初優勝し甲子園行きを決めた後、パレードで市内を行進するシーン。烏山頭ダムの放水も完了し、この時には現在と同じく噴水が噴射されています。

 

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時代変わって戦争が始まり、南方戦線に赴く錠者隊員が高雄に向かう途中嘉義に寄ったシーン。この頃には戦時中の重々しい雰囲気が色濃く反映され、「国民精神総動員」などといった垂れ幕が至る所に掲げられています。噴水の噴射も中止され、かつての嘉義の街の活気は失われていました。ちなみに錠者隊員は1931年、札幌商業のエースとして甲子園二回戦で嘉農と対戦しています。

 

………などなど、嘉義の街の盛衰を如実に表す場所として登場しています。

 

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それにしても、『KANO』がこれ程までに台湾の人々に受け入れられた理由は何なのでしょうか?単に台湾人は日本のことが好きだから?それもあるかもしれませんが、一番は嘉農野球部のメンバー構成にあったと思います。

かつて台湾の学校が甲子園に出場していたといっても、そのメンバーの内訳はほとんどの学校が内地人(日本人)のみ、というのが実情でした。映画の中でも、嘉農のライバルとして登場する嘉義中学は日本人ばかりです。しかし、1931年の嘉農野球部はスタメン9人のうち

日本人3人、漢人2人、原住民4人

そして監督は、かつて名門・松山商業を率いたこともある日本人の近藤兵太郎という構成でした。当時の台湾における複雑な民族状況をミックスしたようなこのメンバー構成は、当時は異端であったように見られ、映画内でも監督の近藤が馬鹿にされるシーンも見られます。しかし、この時酒に酔っていた近藤は

「蕃人(原住民)は脚が速い、漢人は打撃が強い、日本人は守備に長けている。こんな理想的なチームはどこにもない」

と相手の批判を一蹴し、結果的に三民族混成チームである嘉農を甲子園決勝まで導いています。

台湾の人々に『KANO』が受けた理由は、日本人と台湾人が協力して嘉農が外地史上最高の成績を収めたことにあるのでしょう。あとは、この時の嘉農の大黒柱が台湾人だったことも大きかったと思います。呉明捷(ゴ・メイショウ、映画では「アキラ」のあだ名で呼ばれる)選手は主将でエースで四番、ロータリーに建てられた像のモデルにもなっています。

 

 

(最後に突然ですがここでクイズです!

Q1.1931年、嘉義農林が甲子園の決勝で戦った相手チームはどこでしょう?*1

Q2.その相手チームのエースとして呉明捷選手に投げ勝った投手の名前は?*2

映画を見ていなくても、高校野球ファンなら分かるはず!正解は脚注にて。)

 

 

ひのき村

 

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KANOに関する嘉義の名所は他にもあります。それがここ檜意森活村です。(以降は名前が長ったらしいので「ひのき村」と略称。)

嘉義の街は元々林業が盛んで、日本統治時代はここに林業に携わる人々のための宿舎群があったそうです。ひのき村は、そんな旧日本式家屋の宿舎群を檜を使って修復し、今では昔懐かしい日本時代の雰囲気を再現したテーマパークとなっています。

 

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先ほど訪れた八田與一記念公園の宿舎群との違いは、ひのき村の方では中で飲食物やお土産などが売られているということです。日本でいう川越の小江戸のようなものだと思ってもらえればいいと思います。

 

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KANOと関係があるのが、このオレンジ色の暖簾の2030舊時嘉義館というお店です。店外から既にKANOが前面に押し出されているので、近くに来ればすぐに分かると思います。

 

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縁側には当時のKANOのユニフォームが。ちなみにこの家屋は、映画における近藤監督の住居として実際に撮影に使われました。

 

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 映画の中ではこんな感じ。

 

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右手の入り口から中に入ると、そこにはKANOに関するものはなく、代わって日本人にとっては昔懐かしの家電やポスター、カレンダー、地図などが飾られていました。

 

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「報國」「銃後」など戦時感満載のポスターや、昭和十九年(皇紀2604年)の日めくりカレンダー。

 

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この日本地図には左上に台湾が掲載されています。戦前の台湾は本当に日本の一部だったんだなあということが実感できる資料です。何気に面白いのは、台湾の隣に樺太が掲載されているところ。当時は南樺太も日本の施政下にあったんですよね。

 

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黒電話や扇風機、ラジオなどもありました。これらの展示品の数々は戦前日本のレトロ好きな人にとってはたまらない内容でしょうが、一方でそれが日本ではなく台湾という”異国の地”にあるということに個人的に少し違和感を覚えました。しかしそれこそが、台湾という国の特殊性を表しているともいえるでしょうね。

 

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昔駄菓子屋によく置いてあったようなお菓子も売られていました。せっかくなので笛ラムネを一つ購入しようとしたのですが、店員の女の子に英語で話しかけてみると、

「やべっ、英語も日本語も分かんねーわ……」

というような戸惑いの表情をされて、その様子がちょっと可愛かったです。ちなみに、このひのき村で働いている女の子は、このお店に限らずどういうわけか皆セクシーでした。今回の台湾旅行でこんなにセクシーな女性はほとんど見かけなかったのにな~、と最初は疑問に思っていたのですが、他のお店も見て回ってみたところ、どうやらその意味が分かりました。どういうことなのかは実際に来てみれば分かると思います。私はチャイナドレスが魔性な衣装だということを初めて学びました。。

 

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……話戻して、店内の左側の方へ移動すると、お目当てのKANOグッズがたくさん展示されていました。ユニフォームやボール、グラブ、ナップサックにスコアボードまで、劇中に登場した様々な小物が飾ってありました。

 

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上は嘉農の甲子園出場を祝う横断幕。そして下の「甲子園」の一筆は、永瀬正敏演じる近藤監督がしたためたものです。

 

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その時のシーン。


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嘉農の甲子園での活躍を伝える朝日新聞台湾版や冊子などもありました。個人的にはこの新聞が一番興味深かったです。地方版とはいえ嘉農の記事が一面にデカデカと載っていることから、当時の台湾世論の嘉農野球部への注目度の高さというのがよく分かります。

2030舊時嘉義館はお店の面積自体は広くないものの、KANOとレトロな日本の雰囲気がぎっしり詰まっており、興味のある人にとっては非常に満足のいくお店でした。

 

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他のお店も時間の許す限り回ってみましたが、ひのき村は店ごとに専門性があるので、ただ見て回るだけでも中々面白かったです。はちみつ専門店やわさび専門店などいったマニアックなものもありました。自分はアイスクリームを食べて少しお腹を満たし(そういえば今日も昼御飯食べてない…)、あとは日本へのお土産もここで全て済ませました。

他、食べ歩きやショッピングだけでなく、園内を歩いているだけでも日本人としては楽しめると思います。園内には旧日本式家屋以外にも、小道や電灯、樹木、池などといった日本時代の街並みが細かく整備されており、ここまで日本の戦前時代の雰囲気が再現されているところというのは日本でも中々ないと思います。外国まで来て日本のレトロな雰囲気に浸るって……と思われる方もいるかもしれませんが、個人的にはそれはそれで乙なものです。

 

ひのき村は台湾ではまだまだメジャーな観光地とはいえないかもしれませんが、今回訪れた感じだと、日本人にとっては少なくとも嘉義屈指の観光名所といってよい場所だったと思いました。今回は来たのが夕方だったため、滞在できたのが約1時間半と短かったのが残念でしたが、もし次来る機会があればもっとじっくり見て回りたいですね。

 

続く

*1:A1.中京商(愛知)

解説.今年で100回を数える夏の甲子園で、唯一の3連覇を果たしているのが愛知の中京商業(現・中京大中京)。3連覇を果たした年が1933年なので、逆算すれば始めの年が1931年だったことはおのずと分かると思います。

*2:A2.吉田 正男

解説.中京商3連覇をエースとして支えたのが吉田正男投手。あの桑田を超える甲子園通算23勝という歴代1位の記録を持っています。映画でも吉田投手は、当時のユニフォームを着て実名で登場しています。