旅の記録

旅ブログです。

20180819 甲子園歴史館

準々決勝から一夜明け、8月19日(日)。今日の甲子園は休養日ということで、試合は無し。しかし、私は今日も緊張した面持ちで目を覚ましました。なぜなら、本日の午前10時より、明日以降の準決勝、決勝を生で見るためのチケットの「大争奪戦」が切って落とされることになっていたからです。

今年の夏の甲子園は、中央特別指定席と一・三塁特別自由席が先行して販売されるシステムとなっていました(一・三塁については一部)。その前売り販売自体は先月の時点で終わっていたのですが、準決勝・決勝の分については、休養日である8月19日の午前10時より前売り販売開始となっていたのです。

準々決勝のチケットをまさかの結末で購入できなかった私としては、準決勝もしくは決勝のチケットは何が何でも手に入れたいところ。予約販売は全国のローソン又はセブンイレブンの発券機械によって購入可能ということになっていました。

私も家の近くのセブンイレブンコピー機の前に10時5分前には陣取り、その時を待ちました。そして10時になった瞬間、コピー機を操作!……が、回線が込み合っているのか全く繋がらない!そうこうしている内に3分程が経過し、ようやく繋がったと思ったら、

 

「予定枚数は完売しました」

 

の表示が……。

 

 

あああああああああッ!!!また負けてしまったッ!憎き転売ヤーの野郎達にまたもッ!!

……その後も他のセブンイレブンやローソンに回ってみて機械を操作してみたものの、最後まで上の表示が変わることはなく……。結局二回目の争奪戦も、私の大惨敗に終わったのでした……(まあ、今回に関して言えば、コンビニのチケット争奪戦に参加するのは今回が初めてだったので、ずぶの素人が上手く行くほど甘い世界ではなかったということですが)。

 

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…………気を取り直して、明日以降の作戦について再度練り直してみます。まず、明日の準決勝については平日の開催なので、土曜開催だった準決勝より混むことはないだろう、と。また、準々決勝の時は一番人気であった一塁特別の列に並んだのも失敗であって、もうちょっと妥協してアルプス席とかにしておけば十分購入できたはず。総括すると、明日は試合開始が午前10時からということもあって、確実性を優先して内野席ではなくアルプス席の方から攻めていけば、徹夜しなくても始発電車で十分間に合うはず、と判断しました。(また、今日は夜地元の友達と飲む約束をしていたので、その後徹夜で並ぶのは体力的にも不可能、ということもありました。)

 

さて、作戦が練り終わったら、あとは夜になるまで暇になったわけですが、この時間を利用して今日も甲子園に行くことにしました。「甲子園って、、試合は無いはずなのにどうしてまた?」という話でしょうが、今回向かったのは正確に言うと、「甲子園歴史館」という甲子園球場に併設されている博物館です。今夏、高校野球選手権大会が第100回を迎えたことを記念して、甲子園歴史館で第100回にちなんだ特別展を開催すると聞いていたので、ぜひ帰省期間中にそちらの方にも行ってみたいと前々から思っていたのです。

 

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というわけで午後2時頃、三日連続の甲子園にやって来ました。とりあえずまず驚いたのは、この時間帯でももう既に並んでいる人たちがいたということ。流石に彼らのバイタリティには私も付いて行けそうにないです…。

 

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さて、昨日、一昨日は球場の周りをゆっくり見て回る余裕がなかったので、今回はまずは球場の周りを少し散策してみることにします。まずは甲子園球場の正面……を撮りたかったのですが、阪神高速が邪魔するんですよねえ。

 

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球場の反対側の壁には、過去10年の大会のトーナメント表と新聞記事が飾られていました。見ての通り、ここ3年は連続して関東勢が優勝をさらっています。

 

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甲子園は阪神タイガースのホーム球場ということもあり、阪神にちなんだ展示物も沢山見かけました。こちらは阪神タイガース永久欠番選手を記念したプレートです。阪神永久欠番選手は三人おり、二人は写真にある通り「牛若丸・吉田義男」と「ザトペック投法・村山実」。残りの一人は「初代ミスタータイガース藤村富美男」ですね。

 

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あと、甲子園と言えば蔦!今から10年ほど前に行われた改修工事の際、球場外壁を覆っていた蔦は一時伐採されてしまったのですが、10年かけて今はまた結構生えてきたな~という印象です。

 

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外野の方に回り、上を向くと青空に主催者である高野連朝日新聞、そして「全国高校野球選手権大会」の旗がたなびいていました。

 

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そしてこちらが、甲子園歴史館です。休養日というのに、意外と人が多い…。入館券を買うだけでも少し待たされましたが、やっぱり第100回というだけあって人気なんだなーと感じながら、中に入りました。

 

甲子園歴史館

 

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1階の受付を通り階段を上がると、まずは「夏の高校野球第100回 特別展」と題したポスターが。私はこの歴史館には数年前にも訪れたことがあるのですが、今回は前回よりもさらに面白い展示が見られそうだと胸を高鳴らせながら、展示ブースへと向かいました。

 

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まず目に飛び込んできたのは、こちらの大量の数の野球ボールです。その一つ一つには、かつて全国大会に出場したことのある学校の名前が記されています。皆さんの母校の名前はあるでしょうか。私の母校は残念ながらありません。

 

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ショーケースの右端の方へ進むと、一つだけ、学校の名前を強調して紹介されているボールがありました。その名も「KANO」こと嘉義農林。この前の台湾旅行の記事でも話題に出しましたが、戦前の高校野球は台湾、朝鮮、満州といったいわゆる「外地」と呼ばれる地区からも参加が可能でした。甲子園歴史館では、当時出場した外地チームの名前も飾ってあるわけですが、その中でも嘉義農林は外地勢史上最高の準優勝の成績を収めた学校です。また、その嘉農野球部の活躍を題材にした映画『KANO』が台湾で大ヒットしたことにより、台湾人の観光客がこの歴史館にも多く訪れている、ということもあるでしょう。

 

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KANO関連の展示は他にも色々ありました。それにしても、KANOに関するものだけわざわざ英語と台湾語の説明文が併記されている辺り、台湾の人々の注目度は相当高いようですね。

 

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さて、こちらは第100回記念ということで特別に展示されたであろう、第1回大会で使用された試合球です。端から見たらただのボロボールですが、そんなものがよくぞ今まで残っていたなと、ちょっと感動してしまいました。

 

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これらは右から:1934年に出場した選手のキャッチャーミット。随分平べったいですが、これでちゃんと球がとれたのでしょうか?(中央):先ほど名前だけ紹介した、後のミスタータイガース藤村富美男の中学時代。当時は広島の呉港中に所属し、第20回大会では優勝を成し遂げています。(注:戦前は現在とは学制が異なったため、高校野球は“中学野球“と呼称されます。)(右):1933年準決勝、中京商-明石中の伝説の試合で使われたボールと当日のチケット。当時は延長打ち切りの規定が無かったため、ゼロ行進となった試合は延びに延びて、何と延長25回まで到達しました。今ではもう有り得ない話ですが、この凄まじい激闘を制した中京商は次の決勝戦も勝ち、長い100回の歴史の中で唯一の「夏三連覇」の大偉業を成し遂げています。

 

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1941年以降、戦争が激化し数多くのスポーツ大会が中止に追い込まれると、中学野球も例外ではありませんでした。そんな中、1942年に戦意高揚を目的とした全国規模の体育大会が開催されることとなり、中学野球の部は聖地・甲子園で行われることになりました。しかし、その実態はあくまで「戦意高揚」を目的としたことから、「打者はビーンボールであっても避けてはならない」「投手は途中交代してはならない」など滅茶苦茶なルールが採用され、結局この大会は正式な中学野球大会として認められずに終わってしまいました。写真のボールは、優勝した徳島商に送られた記念ボールですが、そんな経緯もあってこの大会は「幻の甲子園」(徳島商は「幻の優勝校」)と呼ばれています。

 

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時代は下って戦争が終わり、1958年の第40回記念大会。この大会で、初めて沖縄県の代表校(首里高校)が甲子園に出場します。しかし、当時の沖縄はまだアメリカの施政下に置かれていたことから、甲子園からの帰り道、那覇港に降り立ったところで、選手たちが記念に持ち帰ろうとした甲子園の土が植物防疫法という法律に引っ掛かり、土は那覇港の海に捨てられてしまいました。このニュースは日本全土を駆け巡り、今でも社会科の教科書で当時の沖縄の立ち位置を紹介する事例として掲載されているほどです。写真右のバッグは、当時の首里高校の主将が土を持ち帰るために使用したケースだそうです。
 

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それから32年の歳月が経ち、1990年、遂に沖縄代表のチームが甲子園の決勝に立つ日が来ました。栽監督率いる沖縄水産は、決勝で奈良の天理に挑むも、0-1で惜しくも敗戦。しかし、翌年の1991年、またもや決勝まで上り詰める快進撃を見せるも、今度は大阪桐蔭との壮絶な打撃戦の末、8-13で敗れ二年連続の準優勝に終わりました。(写真左のグローブは、91年のエースだった大野投手が使用していたもの。)沖縄代表が甲子園大会優勝を成し遂げるのはそれから8年後、深紅の大優勝旗を手に入れるのはそこからさらに11年の歳月を要しました。
 

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こちらは、恐らく今回の特別展でしかお目にかかれないであろう、今大会の開幕試合で始球式を務めた松井秀喜氏が投げたボールと、その時履いていたアップシューズ(上)、下が国民栄誉賞を受賞した際に贈呈された金のバットです。感想としては、とりあえず松井の靴はめちゃくちゃデカイ!皆口々にそう話していました(笑)
 

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続いてこちらは、甲子園で旋風を巻き起こしたチームの紹介コーナー。個人的に一番印象というか思い入れがあるチームが、2006年春夏の甲子園に出場した沖縄の八重山商工です。石垣島に所在する日本最南端の高校が、沖縄県の離島勢として初めて甲子園に出場。現ロッテの大嶺祐太を擁し、春夏連続でベスト16入りを果たしました。(ちなみに、どうして私が八重山商工に思い入れがあるのかというと、私の母が石垣島出身で、かつ当時が最も高校野球に熱中していた時期だったからです。)
 

名勝負ギャラリー

 

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ここからは「名勝負ギャラリー」ということで、100年以上に及ぶ高校野球の名勝負の数々が紹介されています。展示されているのは高校野球ファンとしてはどれも有名過ぎる試合ばかりなのですが、このブログを読んでいる方に高校野球の魅力を少しでも伝えるべく、その幾つかを紹介していこうと思います。

 

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まずは1961年夏の大会の準決勝。この大会で前人未到の夏春夏の甲子園三連覇を目指した法政二(神奈川)に対し、大阪の浪商が立ちはだかりました。実は両校、前年の夏と同年の春も甲子園で顔を会わせていたのですが、いずれも法政二の勝利に終わっていました。雪辱に燃える浪商は、延長11回に及ぶ激闘を制して、三度目の正直で遂に法政二に勝利。そのまま翌日の決勝も制して、同校二度目の夏の甲子園優勝を果たしたのでした。

 

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しかし、1960年代最高の名勝負と言えば、69年夏の決勝である松山商(愛媛)ー三沢(青森)でしょう。両者一歩も譲らぬ投手戦は、遂に延長18回になっても決着が着かず、甲子園史上初の決勝引き分け再試合に持ち込まれます。翌日の再試合、松山商は前日完投したエースの井上を早々に引っ込めるものの、三沢はエースの太田が最後まで続投。しかし、流石の太田もこの日は疲労が祟り、4失点を喫し松山商が同校四度目の夏優勝を成し遂げています。そしてこの試合が、結果的に東北勢が最も全国制覇に近づいた一戦となったのでした。

 

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時代は70年代に移り、1973年。この年の高校野球は、まさに作新学院(栃木)の怪物・江川卓のためにあった1年と言っても過言ではありませんでした。全国の球児が「打倒・江川」に燃える中、特に江川を意識していたのが千葉の銚子商です。前年秋の関東大会でも両校は顔を会わせていたのですが、この時の結果は江川が被安打1、20奪三振の完封で銚子商を圧倒。対する銚子商としては、まさに屈辱的な負け方を喫していたのでした。

年が明け73年夏の甲子園、両校は二回戦で再び相見えます。試合は双方得点を奪えないまま、延長12回までもつれ込みます。その裏、雨が降りしきる中で江川は一死満塁の大ピンチを迎えます。そしてカウントがフルカウントになったところで、江川は仲間達をマウンドに呼び寄せました。実は、この年の作新学院は江川が余りにも圧倒的過ぎる存在から、チーム内の関係はあまり良好とは言えない状態でした。しかし、この時の江川が発言した「真っ直ぐを力一杯投げたい」という一言に対し、マウンドに集まった仲間達の答えは「お前の好きな球を投げろ」。そして次の一球、江川の真っ直ぐは大きく高めに外れてしまい、押し出しサヨナラ。怪物・江川の最後の夏は二回戦で終り、一方でリベンジを果たした銚子商はこの大会ベスト8に進出しています。そして翌年夏、銚子商はこの試合江川に投げ勝った土屋をエースに据え、同校初の全国制覇を成し遂げることになるのです。

 

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続いて1979年。この年注目を集めたチームは、大阪の浪商です。前述したとおり18年前、尾崎行雄を擁して全国制覇を成し遂げた学校ですが、この年の浪商は牛島、香川という投打の二枚看板を擁した稀に見る大型チームでした。その年の春の選抜、決勝まで勝ち上がった浪商と与したのは和歌山の箕島。この試合、両校のエースである牛島、石井は疲労の蓄積から本調子ではなく、乱打戦となります。取られては取り返すシーソーゲームの展開で進んだ試合は8回裏、箕島の四番、北野が放った二点適時打が決勝点となり、8-7で箕島が三度目の選抜制覇を決めたのでした。(ちなみに、この試合で箕島の北野は選抜史上初のサイクルヒットを達成しています。)

 

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その年の夏、次こそは全国制覇を目指した浪商ですが、準決勝で徳島の池田に破れベスト4止まり。対する箕島も順風満帆な勝ち上がりとはいかず、特に三回戦の星稜(石川)戦では敗戦の瀬戸際に二度も追い込まれています。

この試合、石井、堅田両投手の投手戦で進んだ試合は、1-1のまま延長戦へ。12回表、箕島は主将・上野山のタイムリーエラーで勝ち越しを許す最悪の展開で、裏の最後の攻撃を迎えます。しかし、その攻撃も簡単に二者凡退に終わり、あと1アウトで試合終了という土壇場に追い詰められます。打席にはトップに帰って嶋田。この時嶋田は、ベンチを出る直前に尾藤監督へ

「思い切り引っ張ってもいいですか」

と尋ねたといいます。そしてその言葉どおり、2球目の甘いカーブを振り抜いた嶋田の打球はレフトラッキーゾーンに一閃。何と土壇場で奇跡的な同点ホームランが生まれたのです。

しかし、こんな奇跡というのは普通は一度しか起こらないもの。この試合箕島が凄かったのは、普通一度しか起こらない筈の奇跡を「二度」起こしたということでした。

試合に話を戻します。奇跡の同点ホーマーで押せ押せ状態となった箕島は14回裏、走者三塁とサヨナラの好機を掴みましたが、今度は星稜の三塁手・若狭が隠し球で走者をアウトにし、ピンチを脱します。(今では高校野球隠し球は禁止されているので、このようなプレーはもう見られません。)そして16回表、星稜は主将・山下の適時打で再び1点を勝ち越します。

その裏、4番から始まった箕島の攻撃ですがまたもや二者凡退。12回に続く窮地に追い込まれます。打席に入ったのは6番の二年生・森川。その初球。完全に打ちあぐねた打球は一塁ファールゾーンへの小フライ。「箕島、敗れたり」と誰もが思ったその瞬間、何と一塁手が転倒してボールを取れず。箕島は九死に一生を得ます。(星稜の一塁手・加藤は、この年から設けられた人工芝の切れ目に足を引っかけてしまい、体勢を崩したのでした。)

しかし、依然箕島が大ピンチであることに変わりはありません。森川は2ストライクまで追い込まれるものの、2-1からの高めの直球を振り抜くと、打球はレフトスタンドへ!何とまたもや奇跡の同点ホームランが生まれたのでした。しかも森川は、これまで練習試合を含めてホームランを一本も打ったことがなかったというのですから、その奇跡性には改めて驚かされます。
試合は3-3のまま18回に入り、当時の規定ではこの回をもって試合打ち切り、翌日に引き分け再試合が行われるということになっていました。まずは表の星稜の攻撃。星稜は二死ながら満塁の大チャンスを掴むものの、代打・久木は空振りの三振。これでこの日の星稜の勝ちは無くなりました。その裏、ここまで投げ続けた星稜のエース・堅田は遂に精根尽き果てたのか、全くストライクが入らず。結局、一死一二塁から五番・上野に適時打を浴び、サヨナラ。二塁走者がヘッドスライディングでホームに帰り、遂に試合が終わったのでした。

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嶋田、森川による二度の奇跡的な同点ホームランを含む、この試合の延長18回に及ぶ熱闘……、それはまさしく高校野球の魅力を凝縮した展開そのものであり、その後もこの試合は「甲子園大会の歴史の中で、この試合こそが"最高試合"だ」と今に至るまで語り継がれています。私はこの試合を生で見たわけではありませんが、試合の展開を知る限り、この試合が甲子園大会における「最高試合」であることに異論はありません。ちなみに、この試合で悲劇のエースとなった星稜の堅田投手は試合後、主審から記念にと試合球を手渡され、それがきっかけとなって堅田投手は現在、甲子園大会の審判員としてご活躍されています。

さて、球史に残る一戦を制した箕島は、その勢いのまま決勝まで勝ち進み、池田との決勝も劣勢の展開を8回裏にひっくり返して、見事三校目の春夏連覇を成し遂げました。ちなみに、公立高校で春夏連覇の偉業を成し遂げたチームは、今も箕島高校ただ一校のみです。

 

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時代は80年代に移り、ここから高校野球の絶頂期が始まります。目まぐるしく注目校が入れ替わる、まさに戦国時代のような様相を呈した時代の口火を切ったのは、早稲田実(東京)の荒木大輔でしょう。80年夏の大会に突如として現れた一年生投手は、初戦の北陽(大阪)戦で被安打1の完封に抑えると、その甘いマスクから一躍甲子園のアイドルとなりました。一年目で全国準優勝の成績を収め、その後は二年春夏、三年春と連続して甲子園に出場するものの、一年目の成績は超えられないままでいました。

そして迎えた82年、荒木最後の夏。早実は順調に準々決勝まで駒を進めましたが、ここで立ちはだかったのは三年前の準優勝校である池田でした。試合は序盤から池田の猛攻が続き、荒木はまさかの7回途中ノックアウト。スコアは14-2で池田の圧勝と、三年間荒木の活躍を見守っていた女性ファンとしては何ともショッキングな幕切れとなりました。そして、最終的にこの大会を制したのが池田です。筋力トレーニングを積み重ね、金属バットの利点をフルに生かした池田の強力打線は、学校が徳島の山間に位置することから通称「やまびこ打線」と呼ばれ、全国からの注目を集めることとなります。

 

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池田は翌年の春の大会も制し、夏春連覇の偉業を達成。そして迎えた83年夏。22年前の法政二が成し得なかった「夏春夏の甲子園三連覇」という大偉業に向けて、池田は順調に準決勝まで勝ち上がります。ここで池田に立ちはだかったのは、大阪のPL学園。今でこそPLと言えば全国にその名が知られていますが、当時はまだ夏の優勝が一回のみ。しかもこの年はエースと四番の両方が一年生と、あまり前評判の高いチームではありませんでした。

当然下馬評は池田の圧倒的優勢。しかし、試合は全く思わぬ展開を見せます。PLは池田の豪腕・水野から2回にいきなり4点を先取すると、投げては一年生の桑田が伸びのある直球と落差のあるカーブで池田のやまびこ打線を翻弄。終わってみれば、スコアは7-0でPLの完勝。池田の夏春夏三連覇の夢は、何とも呆気なく終わったのでした。

この試合で一躍注目を集めるようになったPLは、決勝でも神奈川の横浜商を下し、二度目の夏の全国制覇を達成。この大会、一年生ながらエースと四番の重責を担った桑田と清原の二人は「KKコンビ」と呼ばれ、その後二年間、PLは全国のチームから目標とされることとなります。

翌84年。春の選抜でもPLは決勝まで勝ち進み、破竹の甲子園大会二十連勝を達成します。しかし、決勝は東京の岩倉・山口投手の前に安打1本に抑えられ、まさかの完封負け。続く夏の大会も、準決勝で金足農(秋田)相手に苦しみながらも何とか決勝まで勝ち上がり、夏二連覇に向けて茨城の取手二と対戦するものの、試合途中右手中指の豆を潰してしまった桑田が最後に力尽き、延長10回の末8-4で破れ、PLは二大会連続の準優勝に終わりました。

 

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年が明け、85年春の選抜。桑田・清原が最上級生となったこの大会は、決勝にすら進むことができずベスト4で終わってしまいます。準決勝で対戦した伊野商(高知)の渡辺投手は、清原を3三振に封じ込めるなどして1失点完投。そのまま初出場初優勝まで駆け上っています。

それにしても、こう振り返ってみると、高校野球の面白さの一つは「どんなに強いチームであっても、甲子園で勝ち続けることは難しい」ということを歴史が証明していることにあると感じます。しかし、KKコンビも最後の夏は意地を見せました。85年夏。PLは初戦の東海大山形戦で29-7という驚異的スコア(今も残る一試合最多得点記録及び毎回得点)で発進すると、準々決勝からは清原の打棒が炸裂。準々決勝で一本、準決勝で二本のアーチをかけると、宇部商(山口)との決勝でも二打席連続アーチを放ち、結局この大会だけで5本のホームラン(これは昨年、広陵の中村に抜かれるまで32年間大会記録)。そして甲子園通算では13本のホームランという不滅の大記録を打ち立てました。(ちなみに、通算本塁打数の第2位は桑田、中村、上宮・元木の6本です。)

試合の方は、9回裏に主将・松山によるサヨナラヒットで決着という劇的な幕切れ。KKコンビは有終の美を飾り、結局一年夏から主力として優勝→準優勝→準優勝→ベスト4→優勝という史上稀に見る驚異的な成績を残して高校野球を終えました。果たして今後、KKのPLを上回る成績を残すチームは現れるのでしょうか……。

 

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時代は平成に移り、1992年にはラッキーゾーンが撤去されます。その年の甲子園で4本のホームランを放ち注目を集めたのが、星稜のゴジラこと松井秀喜です。しかし、稀代のホームランバッター・松井の最後の夏は、二回戦で明徳義塾(高知)相手に一度も勝負させて貰えず、五打席連続敬遠という前代未聞の作戦を受けます。試合も3-2で敗れ、松井としては何とも納得のいかない結果で最後の夏が終わったのでした(この明徳義塾の作戦は当時、高校野球の在り方を巡って大論争が巻き起こりました)。

 

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それから6年後、今度は投手から平成最高のスーパースターが現れます。1998年の高校野球は横浜(神奈川)の怪物・松坂大輔の為にあったと言っても過言ではありませんでした。横浜は前年秋の明治神宮大会を制すると、春の選抜でも優勝。そして夏は、準々決勝でPL学園と延長17回の激闘を繰り広げます。これまで失点僅か1の投球を見せていた松坂ですが、PLベンチは松坂"ではなく"捕手の小山の癖を見抜き、球種が直球か変化球かを打者に伝えたことで、松坂相手に5点を上げることに成功します(ちなみにこのサイン盗みも、今の高校野球では禁止されています)。しかし横浜も負けじと同点に追い付くと、延長に入ってからは点を取られたら取り返すシーソーゲームの展開に。試合は延長17回表、横浜の代打・常磐の2ランホームランが決勝点となり、9-7で平成史上最高の名勝負を横浜が制したのでした。

しかし、この試合で250球を投げ抜いた松坂は、翌日の準優勝は先発出来ず。変わりに投げた控え投手が明徳義塾に打ち込まれ、準決勝は7回終わって0-6の大劣勢の展開となります。ところが、横浜打線は8,9回で7点を上げ、まさかの大逆転サヨナラ劇を見せると、決勝戦は再び先発のマウンドに立った松坂がノーヒットノーラン。まるで漫画のような展開で春夏連覇を成し遂げたこの年の横浜は、高校野球史上最高のチームとの呼び声も高いです。ちなみに、横浜はその後も、同年秋の国体を制して高校四冠を達成し、年間を通して公式戦無敗という、長い高校野球の歴史の中で史上唯一の大偉業を成し遂げています。

 

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そして時代は21世紀に移り、2004年夏には南北海道代表の駒大苫小牧が北海道勢初の全国制覇を達成。深紅の大優勝旗が初めて津軽海峡を渡ると、翌05年の夏も制し、半世紀以上ぶりの夏連覇を成し遂げました。そして06年夏も、現ヤンキース田中将大を擁して決勝まで勝ち上がります。1931~33年の中京商が唯一達成している「夏三連覇」の大偉業に向けて、最後に立ちはだかったのは古豪・早稲田実でした。

駒苫早実の決勝戦は、田中・斎藤の両エースが譲らず、1-1のまま延長戦へ。そして延長15回が終わっても遂に決着が着かず、69年の松山商ー三沢以来の決勝戦引き分け再試合となりした。翌日の決勝再試合は、準々決勝から四連投となった早実の斎藤が駒苫打線を3点に抑え完投。4-3で早実が悲願の初優勝を果たし、対する駒苫は夏三連覇の快挙に後一歩のところで届きませんでした。

 

 

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………名勝負ギャラリーだけでかなりの文量を費やしてしまいましたが、甲子園歴史館の展示内容は当然これだけではありません。館内右の方へ進むと、甲子園を本拠地とするプロ野球阪神タイガースのブースもありました。阪神ファンの私としては、これらの展示も当然興味を引くものだったのですが、今日は時間的に高校野球だけでも十分回れそうにない感じだったので、タイガースコーナーの方はやむ無く素通りすることにしました(じっくり見るのはまた次回ということで…)。

 

100回を彩った名選手たち

 

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タイガースコーナーを抜けると、こちらは「100回を彩った名選手たち」という題目で、過去の名選手を振り返る特別展示が行われていました。

 

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まずは100回を数える夏の甲子園の歴史の中で唯一、「夏三連覇」の大偉業を成し遂げた中京商の当時のエース、吉田正男です。1931~33年にかけて、積み上げた甲子園の勝ち星「23」は歴代最多。33年夏の大会の準決勝では、対明石中(兵庫)戦で延長25回の死闘を投げ切るなど、まさに大車輪として活躍した高校野球における伝説の投手です。

ちなみに、吉田は31年夏の決勝、対嘉義農林戦でも登板しているのですが、その時の嘉農野球部の活躍を描いた映画『KANO』でも吉田は同名で登場しています。個人的に、映画に出てくる吉田演じる役者さんと、実際の吉田の顔や雰囲気が、結構似ているような…?

 

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続いて、こちらも戦前の伝説の大投手、海草中(和歌山)の嶋清一です。1939年夏の大会では全五試合を完封して、うち準決勝と決勝はノーヒットノーランという離れ業を成し遂げ、見事チームを優勝に導いています。しかし、残念なことに嶋は後の第二次大戦で海軍に召集され、戦死。24歳の若さでこの世を去っています。

 

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時代は戦後に移り、こちらは1960~61年にかけて浪商のエースとして活躍した尾崎行雄。ライバル・法政二とは一年生の頃から甲子園で対戦し、一年夏、二年春は敗戦を喫するものの、三度目の正直の二年夏の準決勝で遂に法政二を撃破。そのまま浪商を二度目の夏の甲子園優勝へと導いています。

ちなみに、尾崎が本当に凄かったのはここからで、何と高校二年の秋に学校を中退して、プロの世界(東映、現日本ハム)に入ります。そして、翌年のシーズンで尾崎は20勝を上げ、見事新人王に輝いているのです。しかし、この時の尾崎は実質的に高校三年生だったわけですから、如何に化け物じみた選手だったかということが分かるでしょう。

 

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続いてこちらは、松山商ー三沢の伝説の決勝引き分け再試合を最後まで投げ切った三沢のエース・太田幸司。優勝には惜しくも届きませんでしたが、最後までマウンドに立ち続けたその姿と、ハーフであることから端正な顔立ちをしていたことで、全国の女性ファンから圧倒的な人気を集めました。その余りの凄さから、「青森県 太田幸司様」という宛名だけで実家にファンレターが届いたという伝説があるほど、まさに甲子園のアイドルの元祖的な存在でした。

 

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その太田が「記録よりも記憶に残る選手」だとすれば、作新学院江川卓は「記憶よりも記録に残る選手」とでも言えましょうか。73年春の選抜では通算60奪三振を上げ、これは今も残る選抜記録。そして同年夏の栃木県予選では、全五試合中三試合でノーヒットノーランを達成し、ほか二試合も被安打1の準完全試合に抑えるなど、まさしく「怪物」の名を欲しいままにしました。その後の甲子園では二回戦で惜しくも敗れましたが、江川が初めて甲子園に現れた春の一回戦、対北陽戦で五番打者が江川の球をようやく初めて当ててファウルにした時、球場からどよめきが起こったというエピソードを考えると、江川は「記録にも記憶にも残った選手」と言った方がいいかもしれません。

 

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ここまで投手ばかり紹介してきましたが、79年浪商を牽引した香川伸行は強打の捕手。その打棒、捕手というポジション、そして何よりずんぐりむっくりのブーちゃん体型から、付いたあだ名が「ドカベン」になるのは自然な流れでした。実績も遺憾なく、夏の甲子園三試合連続本塁打は今も残る大会記録。

 

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80年代に入り、突如として現れた甲子園史上最高のアイドル、早稲田実荒木大輔は、ある意味甲子園で一番「記録よりも記憶に残る選手」だったかもしれません。その前の元祖アイドル・太田幸司、後にアイドルとなった後輩・斎藤佑樹と荒木が決定的に違っていた点は、荒木は「一年生から」三年生までアイドルであり続けた、ということ。その凄まじい注目度にも負けず、高校球児に与えられる五度の甲子園のチャンス全てを物にして、甲子園で積み重ねた5敗(12勝)という成績は「栄誉ある」甲子園最多敗戦記録。

 

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荒木が甲子園を去った翌年、またもや現れたスーパー一年生・PL学園桑田真澄は、圧倒的な「記録」を作り続けました。五季連続で甲子園に出場し、優勝は二度。敢えて直球とカーブだけで勝負する独自のスタイルで、甲子園で積み重ねた通算勝ち星「20」は戦後最多の大記録です。また、桑田は投手としてだけでなく、打者としても超一流。甲子園通算本塁打6本は、同僚・清原に次ぐ歴代二位タイ。守備も上手く、甲子園でトリプルプレーをやってのけたこともあります。投手以外に遊撃手でも、プロで絶対に通用すると言われた逸材は、投攻守揃ったまさに「天才野球少年」そのものでした。

 

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平成に入り、ラッキーゾーンが撤去された1992年に4本のホームランをかっ飛ばしたのが、星稜の松井秀喜です。しかし、松井の名声を確固たるものとした最大のきっかけは、92年夏の二回戦、対明徳義塾戦の五打席連続敬遠事件でしょう。最後の夏、松井はバットを一度も振らせてもらうことなく、チームも敗戦。松井にとってはショッキングな出来事となりましたが、この前代未聞の作戦をきっかけに、松井の名は長い高校球史にその名を残すこととなりました。

 

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そして、平成最高のスーパースターと言えば、横浜の松坂大輔。150kmのストレートと鋭く曲がるスライダーを武器に、98年春夏連覇。特に夏の準々決勝、対PL学園戦の延長17回に及ぶ死闘と、決勝のノーヒットノーランは平成最高の伝説と言えるでしょう。松坂はその翌年、プロ野球・西武に入団していきなり16勝を上げ最多勝を獲得するわけですが、そんな選手が高校で投げていればそりゃあ圧倒的な成績を残すのも納得できます。(それにしても、高校時代の松坂は今と比べると本当に痩せている(^^;))

 

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平成最高のスーパースターが松坂なら、平成最高のアイドルと言えば早稲田実斎藤佑樹でしょう。2006年夏の決勝、駒大苫小牧との延長15回引き分け再試合の死闘を最後まで投げ抜き、見事早実夏の甲子園初制覇に導いています。斎藤はその後、その端正な顔立ちと試合中ハンカチで汗を拭う仕草から、「ハンカチ王子」という愛称を付けられ、一躍先輩・荒木大輔に次ぐ甲子園のアイドルとなりました。(私もこの頃はリアルタイムで見ていましたが、甲子園の後も暫くは、スポーツニュースでハンカチ王子の名を見かけないことがないくらい、物凄い人気でした…。)

 

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そして前回大会、夏の甲子園一大会最多本塁打記録を塗り替えた広陵(広島)の中村奨成も、100回を彩った名選手の一人としてその名が紹介されていました。正直言うと、この大会はボールが飛びすぎな感が否めなかったのですが、その分彼の真価はこれからのプロの成績で評価されていくことでしょう。

 

……さて、ここまで様々な名選手を紹介してきましたが、ここで「何か一人欠けている」という違和感を持たれた方はいらっしゃらないでしょうか?その一人とは、、

………そうです、ご存じKKコンビの一角、K原K博ですね。二年前に薬物使用問題が上がって以降、この甲子園歴史館でもK原関連の展示は撤去されたという話は聞いていましたが、2年経ってもまだ許されていなかったとは…。もちろん、K原が行った行為は簡単に許されるものではありませんが、高校野球の歴史は彼抜きには語れないですから、いずれまた彼の展示が復活することを個人的には望んでいます。

 

 

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「100回を彩った名選手たち」のブースを抜け、こちらでは昔懐かしいペンキ塗りの手書き選手名スコアボードが展示されていました。今の時代は当然電光掲示による表記なのですが、その分ペンキ塗りの手書きというのは若い自分には真新しさがあり、趣というものも感じられました。

 

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さて、この「呉」という選手名のスコアボード。阪神ファンの人は見覚えありますか?

 

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フルネームは呉昌征。台湾人の彼は戦前に巨人に入団し、1944年に阪神に移籍してからはダイナマイト打線の一角を担い、投手としてもノーヒットノーランを達成するなど、投打に渡り活躍して野球殿堂入りも果たした初期の名選手です。そんな彼の元々の本名は「呉波」。出身校はあの嘉義農林。映画『KANO』を見た人はピンと来るでしょう。劇中に登場する嘉農入学を志すあの少年こそ、後に「人間機関車」として名を轟かすことになる呉昌征だったのです。

 

バックスクリーンビュー

 

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歴史館はちょうどバックスクリーンの真後ろの所まで来ました。ここで、バックスクリーンから甲子園球場全体を見渡せるスポット、バックスクリーンビューに行ってみることにしました。

 

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前回歴史館に来たときは、ちょうど試合をやっている最中だったので、バックスクリーンビューには立ち寄れなかったんですよね。今回は天気も快晴ということで、ご覧のとおり超素晴らしい景色が目の前に広がっていました。

 

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青い空、白い雲を背景にした甲子園のスコアボード。最高に良い眺めです。そしてスコアボードが本当に大きい。

 

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初めて甲子園球場のこのような景色を目の当たりにしましたが、何というか、これまで行ったどの球場よりも大きくて、雄大だという風に感じました。本当に日本一の球場だと思います。昨今の記録的猛暑から、甲子園をドーム化すべきなどといった話も出ていますが、実際にこの場に身を置いてみるととんでもない話だと思います。やっぱり甲子園の良さは屋外球場だからこそ出ているものがあって、この歴史はこれからの100年間も受け継いでいってほしいと思います。

 

 

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バックスクリーンビューを出て、こちらでは高校野球をモチーフにした漫画作品が多数展示されていました。

 

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高校野球の漫画」と聞いてまず思い付くのは、やはり野球漫画の金字塔『ドカベン』でしょう。

 

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主人公である山田太郎は強打の捕手。難しいポジションである捕手を主人公に据えた漫画は、後にも先にもドカベンぐらいしか見当たりませんが、その分読めば読むほど、野球という繊細なスポーツの奥深さを感じられる漫画でもあります。

 

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その山田太郎が高三の夏を舞台にしたのが、『ドカベン』の続編に当たる『大甲子園』です。この作品は作者である水島新司氏の他の作品のキャラクターも多数登場させており、一つの漫画の枠を超えて日本一の座を争うという、非常にスケールの大きな作品となっています。

 

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また、『大甲子園』は夏の甲子園に特化した作品だけあって、真夏の暑さの描写が非常に多いのも特徴です。こちらのコマも、円陣の背景に照りつける太陽を強調させることで、甲子園の暑さ、そして戦う選手たちの気持ちの"熱さ"を見事に表現しています。

 

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水島作品以外で個人的に好きな漫画といえば、ちばあきお氏作の『キャプテン』があります。その『キャプテン』の初代主人公・谷口タカオの高校時代を描いた作品が『プレイボール』です。谷口属する墨谷高校野球部は弱小で、甲子園ではなく都大会の描写しかないのですが、それでも幾多の強豪に立ち向かう墨谷高校の試合の数々は手に汗握るものがあります。

 

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他、あだち充氏作品の『タッチ』や『H2』など、高校野球に関する様々な作品が紹介されていました。パネルに展示されているコマは非常に大きく、迫力があるので一見する価値ありです。

 

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最後のブースは、各都道府県の甲子園ベストゲームの紹介でした。北海道の「駒大苫小牧済美」、茨城の「取手二PL学園」など、それぞれ印象的な試合が並んでいました。

 

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そして最後に、今大会から新調された三代目・深紅の大優勝旗と優勝盾の特別展示です。果たして、100回目の栄冠を掴み取るのは一体どのチームになるのでしょうか…。

 

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甲子園歴史館は他にもじっくり見て回りたいところがたくさんあって、何なら一日中見て回っても飽きない自信があるくらい、盛り沢山な展示内容だったのですが、残念ながらこの後用事があったので、これにて歴史館を後にすることにしました。でも、他にもまだブログで紹介し切れてない分(特に阪神)を記事にするためにも、またこの博物館には訪れようと思っています。歴史館を出ると、写真の野球塔が青空に向かって聳え立っていました。

 

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甲子園球場駅に向かって歩いていると、徹夜組の列はもう駅前まで延びていました。一応私は始発でも大丈夫だと踏んでいたのですが、果たして…。(それにしても、徹夜組の中に若い女性を結構見かけたのが個人的に意外に思いました。この時は、大阪の富田林警察署から逃げ出した強姦未遂の犯人がまだ捕まっていない状況だったため、よく屋外で徹夜なんかするなー、と思ったのですが…。)

 

続く