旅の記録

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台湾旅行2日目③ 芝山公園と恵済宮

國立故宮博物院を11時前頃に出て、次に向かったのは芝山公園というところです。芝山公園は地球の歩き方に掲載されておらず、台北市内では著名な観光スポットとはいえない場所かもしれませんが、実は知る人ぞ知るある有名な事件が起こった場所でもあるのです。その事件とは今から100年以上前、日本からやって来た教育者たちに襲った悲劇でした。

 

敢えて徒歩で芝山公園へ

 

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芝山公園はMRT淡水信義線の芝山駅(士林駅の一つ隣)と故宮博物院の間にあり、どちらから歩いても20~30分程度かかる位置にあります。これならバスで一端芝山駅に戻るより、故宮博物院から直接歩いて行った方が早いだろうと思い、今回は徒歩で直接向かうことにしました。

写真の故宮博物院前の大通り(善路二段)を西に沿って進んで行きます。

 

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半分ぐらい行ったところで川と合流し、後半は河川敷に沿って歩いて行きます。川の向こう側には山の斜面に面したレンガ造りの豪邸が連なっていました。

 

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台北中心部から距離的には7kmぐらいというのに、何とものどかな風景です。やはり異国の地は歩いているだけでも飽きませんね。この後もスケジュールが詰まっているのに30分も歩くのはしんどいかな、と若干心配していたのですが、別に苦に感じることもなく歩けました。

 

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30分弱で予定どおり芝山公園に到着です。木々が鬱蒼と生い茂り、公園というよりは山の入口のような雰囲気ですが…、さっそく中へ入ってみます。

 

芝山公園と芝山巌事件 

 

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まずは階段を上って行くわけですが、これが見てのとおり果てしなく長い。さすが芝”山”という名前のとおり、小山の斜面を切り開いて造られた丘陵公園であるということが感じられます。

 

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階段の途中には木々が生い茂っているだけでなく、このような超デカい岩もゴロゴロしており、まるで山の中に潜入しているような気分になります。二二八和平公園のような都市公園とは様相が全く違います。

 

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ようやく階段を上り切りましたが、もう下の様子は全然見えません。

 

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隣にある遊歩道を渡ると、その先から公園下の様子を眺められました。

 

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さらに奥の方へ進み、芝山公園最高地点からの景色は、こんな感じ。曇り空なのであまり景観は良くないですね…。

…さて、今回私がこの芝山公園に遥々やって来た理由は、始めにも書いたとおりこの地で日本人が関与したある事件が起こったからなのですが、ここでその事件とやらについて少しお話ししましょう。

 

時は100年以上前に遡って19世紀の末、1895年のことです。同年に下関条約によって清から台湾を割譲された日本は、島民への教育施策に乗り出すべく、さっそく国内から教育者を多数送り込みました。その内の一人で、当時の台湾教育の中心役を担っていたのが伊沢修二という人物です。伊沢修二といえば日本の音楽教育においては超有名な人物で、また当時は文部省の官僚として日本の教育の近代化を推し進めているなど、教育者としては超エリートな逸材でした。そんな伊沢が自ら台湾に乗り込んで島民の教育に当たったというのですから、当時の日本政府の教育への熱の入れようというのは相当なものでした。

伊沢は他に7人の教師を連れ、ここ芝山巌(しざんがん)という土地に台湾初の小学校を設立しました。「芝山巌学堂」と呼ばれたその学校は、当初はかなり小規模な学校であったものの、熱心に現地の子供たちへ日本語を教えたことで、次第に現地の人々からも認められていきます。しかし芝山巌学堂は、設立後わずか半年で悲劇に見舞われることとなります。

当時は日本統治に反対する現地勢力を、日本側が武力で制圧していた真っ最中。日本統治時代の台湾といえば治安が非常に良好であったとよく言われますが、領台初期は日本とその反対勢力の対立が激しく、とても治安が安定しているとはいえない状況でした。事件はそんな不安定な世相の中で起こります。年が明けて1896年の正月、例の日本統治に反発する抗日ゲリラ勢力が、芝山巌学堂を襲撃したのです。

このときのゲリラ勢力は、地元では土匪と呼ばれ、今の日本でいうヤクザのような存在だったといいます。武器を持つ彼らに対し、教師たちは逃げずに説得を試みますが聞き入れられることはなく、その場にいた6人全員が殺されてしまいました。(ただし、伊沢ともう一人の教師はその時たまたま内地の方へ戻っていたため無事でした。)こうして、台湾領有直後に起こったこの衝撃的な事件は「芝山巌事件」として語り継がれ、芝山巌の地は台湾教育界における聖地として神格化されるようになったのです。

 

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殉職した6人の教師はその後「六士先生」の愛称で日本・台湾人問わず親しまれ、事件半年後には六士先生を弔うための「學務官僚遭難之碑」も建立されました。この石碑の字はあの伊藤博文が揮毫したものであり、当時の日本政府もこの事件を重く受け止めていたということが分かります。

ただ、この石碑は戦後日本による統治が終了すると、次の統治者である蒋介石率いる国民党によってなぎ倒され、そのまま長い間放置されていました。蒋介石は、当時の台湾社会に日本語が想像以上に普及していたことに危機感を抱き、このような日本語教育の象徴的なものを徹底的に排除していったのです。

現在は、このように元の状態に立て直されていますが、これは現地の人々の好意によるものであり、しかもそれは2000年とかなり最近のことでした。

 

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石碑の近くには雨農閲覧室という小さな学習室のようなものがあり、中には芝山巌事件についてのパネルが展示されていました。しかし、土日は解放されていないようで、今回は入ることができませんでした。残念。

 

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雨農閲覧室のさらに奥へ進むと、六士先生のお墓もあるということで、探してみたのですが、その前に「故教育者姓名」という石碑を見つけました。台湾教育界の聖地となった芝山巌は、事件後も台湾教育に殉じた人々を祀る特別な場所として整備され、この石碑には台湾の地で亡くなった教育者たちの名前が刻まれています。

 

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道中には小さな御廟もありました。小規模ですが建物の装飾は非常に細やかです。

 

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そしてついに、六士先生のお墓を発見しました。こちらも「學務官僚遭難之碑」と同じく、国民党による破壊の対象となったのですが(こちらは倒されたのではなく破壊)、それからおよそ半世紀が経ち、同様に現地の人々により再建されたものが今残っています。(なぜか真正面のパネルが「地質教室」となっているのが気になりますが…。)

実は私は大学が教育学部の出でして、今は教師はやっていないですが教員免許は持っています。六士先生という教育界の大先輩に想いを馳せると、当時の人々にとって台湾は全く未知の土地。日本語が全く通じない地域にも関わらず、自らが先駆者となって現地の人々の教育に当たろうと、遠い台湾の地まで遠路遥々やって来たというのは、冷静に考えれば物凄く勇気のあることだったと思います。結局彼らは志半ばでこの世を去ってしまいましたが、その後約半世紀の間に台湾における日本語の普及率は7割に達し、彼らの遺志はその後を受け継いだ人たちによって達成されたといえるでしょう。

ちなみに、日本統治時代を生きた台湾の人々の証言を読み漁っていくと、当時の台湾の学校の先生というのは「優しかった」というのが共通の認識だったようです。(逆に「怖かった」のは警察官。)また、台湾の人々とって日本語というのは、もはやただの「植民地時代に押し付けられた言語」とは一線を画し、それまでバラバラの言語を話していた現地の人たちが唯一意思疎通できる共通の言語としての役割を果たしていました。

ある意味「植民地時代の名残」であるこうした石碑を、現地の人々が敢えて再建したり復元したりしたというのは、国民党のようにただただ日本時代を「悪」と決めつけるのではなく、当時の日本の教育や日本語について“客観的“な目線で評価を下したからと言えるのではないでしょうか。芝山公園を訪れたことで、「なぜ、台湾の人々は親日的なのか」という日本人なら素朴に思う疑問の答えの一つが見つかったような気がしました。

 

 恵済宮

 

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さて、六士先生のお墓も見つけたし、あとは適当に散策して帰るかー、と思って適当に歩いていると、道が二手に分かれている場所に出くわし、何となくその内の一つの道を歩いて行くと、何やら大きな広場に辿り着きました。

 

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広場にていきなり目に飛び込んできたのは……、西遊記の皆さん…。他にもこの広場には石像がたくさん飾られていました。

 

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どうやらここの広場は、恵済宮という道教のお寺の敷地一帯のようで。その規模はこのとおり、先ほど出くわした御廟よりもかなり大きく、参拝客もたくさん集まっていました。

 

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芝山巌の中に構える恵済宮。広場の端からは下の様子が眺められました。

 

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恵済宮の屋根の装飾です。仏教のこういう彫刻ってどれも芸が細かいですけど、こと中国式の道教寺院についてはその細やかさが際立っているような気がします。見ると龍のほっそい髭まで丁寧に再現されていて、本当にただただ凄いの一言です。

 

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せっかくなので中に入ってみることにしました。真面目に参拝されている方もいるので、邪魔にならない程度に見学と写真撮影を…。

 

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多分初めて中国式御廟の中に入りましたけど、感想としては赤を基調としていて豪華絢爛、それに尽きます。日本の仏教寺院はどちらかというと黒や灰色を基調として、「慎ましい」「質素」「純朴」といったワードが思い浮かびますけど、台湾の寺院についてはその対極を行きとにかく派手でした(大陸中国の方もこんな感じなのでしょうね)。この辺は、民族間の死後の世界観の違いが如実に表れているといっていいでしょう。

 

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お供え物は日本と変わらず、お菓子とか缶ジュースとか。ただ、心なしかこれらもパッケージが派手なものが選ばれているような…。

 

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こちらも豪華絢爛な門をくぐって後にします。思いがけず初めての道教寺院の中に入れたということで、良い経験ができました。

ちなみに、、これは後で調べていたら知った話なのですが、実は芝山巌学堂ってこの恵済宮の施設を一部間借りして設立された学校らしいんですね。しかも、日本が戦争に負けて国民党が日本に関係あるものをあらかた破壊しようとしたとき、当時の恵済宮の住職さんはこっそり六士先生の遺骨を移して隠し祀っていたそうです。

この事実から、恵済宮と芝山巌事件が切っても切れない関係にあるということを知り、さらにその後のエピソードから、現地の台湾人の方々の温かみというものも実感しました。私は当初芝山巌事件や芝山公園は知っていても恵済宮のことは全く知らず、今回恵済宮に寄ったのも完全に偶然だったのですが、たまたまでも訪れることができて本当に良かったと思います。

 

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結局芝山公園も1時間近くいてしまいました。芝山公園は芝山巌事件に関すること以外にも、とにかく自然が雄大で道もアップダウンがあり、軽いトレッキングをするには最高な環境だと思いました。道中には自然学習に来たらしい小学生の集団を何度も見かけ、地元の人々に親しまれている公園なのだなということも感じられました。地球の歩き方には載っていないある意味穴場的なスポットでしたけど、個人的にはかなり満足のいくスポットだったと思います。

 

続く